大沢班広報誌「のがわ」第11号掲載文
65歳・サードステージに立って

(1)かすかなおもいで
私は昭和21年1月8日生まれの戦後一期生です。武蔵野市で生まれ育ちました。今の東京都立小金井公園テニスコート横の6畳一間のバラック小屋が私の生まれ故郷です。桜堤コミュニティセンターの広場(清水湯と松井医院)が遊び場のメーンだったようです。
武蔵野は今振り返るとその当時からコミュニティがあったのですね。小学生の学芸会、盆踊り、そして是政まで海水浴に行きました。大人も子供も仲がいいのです。みんな知り合い。
私が小学校に上がる時、吉祥寺にランドセルを買いにバスで出かけました。泥んこの五日市街道をエンストを繰り返し、クランクをまわしてやっと動く姿が瞼に浮かんでいます。初めて食べたラーメンが美味しかったこと、隣の模型屋さんがなぜか気になった。
大沢にお住まいの先輩方はこの時代のありようは心と体に染みついていると思います。立川基地が近く、アメリカ兵がジープに乗ってきてチョコレートをくれます。「ギブミーチョコレート」という英語を知らない私の友達たちがアメリカ兵を取り囲みます。私はへそ曲がりですから見向きもしませんでした。
あと嫌な思い出は「パンパン」です。子供心に「卑しい」という心が芽生えました。混血の子が生まれほっぽり出されるケースがほとんどでした。
小学校1・2年生は玉川上水の土手を恵美ちゃんと歩いて武蔵境の駅前の第二小学校まで通いました。途中に幼稚園と高校があったのは覚えています。子供心にとにかく遠かったです。3年生からは武蔵野二中で複式学級。午前中は小学生、午後は中学生。そのころから給食が始まり、コッペパン、脱脂粉乳の日々。桜堤団地が誕生してから大きく変容。新設の境北小学校は5年生から。その時の先生方は初々しかった。自分たちが学校・日本の教育を作るんだという気概が子供心に突きささってきました。担任の中原先生は健在でまだ同窓会をやっています。
(2)三鷹市民になって
昭和53年4月22日に三鷹市民になりました。北野という世田谷よりの緑に囲まれたところでした。窓口と言うか市に対して一番困ったのは新川保育園がストライキで休園になったことです。今では当たり前ですが当時、専任の共稼ぎは少数派で休みをとるときつい目で見られました。そんなことが頭にふっと浮かびました。
平成20年12月10日に大沢に引っ越してきました。以前、中学校訪問で三鷹7中に来た時、しびれるような感動を覚えました。一瞬、なぜ私は長野県の山の奥の中学校にいるのだろうかと。それほどのどかで包容力のある場所でした。
国立天文台があり、大沢の里、野川公園、武蔵野の森公園、調布飛行場と素晴らしい自然が迎えてくれます。音、風、香りなどが自然との対話を楽しませてくれます。
生き方の一つとして昨年、三鷹シルバー人材センターに登録しました。じき団塊の世代が年金生活に大量に入ってきます。豊かに楽しく老後を送るために共生、共学、共遊、共食、共創などが必要だと思います。シルバーこそが時代の中心になり元気なニッポンを創らなくてはいけないと思います。ちっぽけな私ですが何かのお役に立てればと思っている次第です。
日野原重明先生は75歳以上の方を「新老人の会」として運動しています。三鷹市は従来のコミュニティと並行して、老人参加の新しいコミュニティの草創が必要かと思われます。その窓口として同じ年代の、体験を共有した人間が橋渡しになることが必要だと思います。同じ土俵に乗って、心と心のキャッチボールができる窓口になりたいと思います。
(大沢1丁目 松本輝一)

(1)かすかなおもいで
私は昭和21年1月8日生まれの戦後一期生です。武蔵野市で生まれ育ちました。今の東京都立小金井公園テニスコート横の6畳一間のバラック小屋が私の生まれ故郷です。桜堤コミュニティセンターの広場(清水湯と松井医院)が遊び場のメーンだったようです。
武蔵野は今振り返るとその当時からコミュニティがあったのですね。小学生の学芸会、盆踊り、そして是政まで海水浴に行きました。大人も子供も仲がいいのです。みんな知り合い。
私が小学校に上がる時、吉祥寺にランドセルを買いにバスで出かけました。泥んこの五日市街道をエンストを繰り返し、クランクをまわしてやっと動く姿が瞼に浮かんでいます。初めて食べたラーメンが美味しかったこと、隣の模型屋さんがなぜか気になった。
大沢にお住まいの先輩方はこの時代のありようは心と体に染みついていると思います。立川基地が近く、アメリカ兵がジープに乗ってきてチョコレートをくれます。「ギブミーチョコレート」という英語を知らない私の友達たちがアメリカ兵を取り囲みます。私はへそ曲がりですから見向きもしませんでした。
あと嫌な思い出は「パンパン」です。子供心に「卑しい」という心が芽生えました。混血の子が生まれほっぽり出されるケースがほとんどでした。
小学校1・2年生は玉川上水の土手を恵美ちゃんと歩いて武蔵境の駅前の第二小学校まで通いました。途中に幼稚園と高校があったのは覚えています。子供心にとにかく遠かったです。3年生からは武蔵野二中で複式学級。午前中は小学生、午後は中学生。そのころから給食が始まり、コッペパン、脱脂粉乳の日々。桜堤団地が誕生してから大きく変容。新設の境北小学校は5年生から。その時の先生方は初々しかった。自分たちが学校・日本の教育を作るんだという気概が子供心に突きささってきました。担任の中原先生は健在でまだ同窓会をやっています。
(2)三鷹市民になって
昭和53年4月22日に三鷹市民になりました。北野という世田谷よりの緑に囲まれたところでした。窓口と言うか市に対して一番困ったのは新川保育園がストライキで休園になったことです。今では当たり前ですが当時、専任の共稼ぎは少数派で休みをとるときつい目で見られました。そんなことが頭にふっと浮かびました。
平成20年12月10日に大沢に引っ越してきました。以前、中学校訪問で三鷹7中に来た時、しびれるような感動を覚えました。一瞬、なぜ私は長野県の山の奥の中学校にいるのだろうかと。それほどのどかで包容力のある場所でした。
国立天文台があり、大沢の里、野川公園、武蔵野の森公園、調布飛行場と素晴らしい自然が迎えてくれます。音、風、香りなどが自然との対話を楽しませてくれます。
生き方の一つとして昨年、三鷹シルバー人材センターに登録しました。じき団塊の世代が年金生活に大量に入ってきます。豊かに楽しく老後を送るために共生、共学、共遊、共食、共創などが必要だと思います。シルバーこそが時代の中心になり元気なニッポンを創らなくてはいけないと思います。ちっぽけな私ですが何かのお役に立てればと思っている次第です。
日野原重明先生は75歳以上の方を「新老人の会」として運動しています。三鷹市は従来のコミュニティと並行して、老人参加の新しいコミュニティの草創が必要かと思われます。その窓口として同じ年代の、体験を共有した人間が橋渡しになることが必要だと思います。同じ土俵に乗って、心と心のキャッチボールができる窓口になりたいと思います。
(大沢1丁目 松本輝一)
2011年11月25日 Posted by松本輝一 at 10:18 │Comments(0) │マツンのおもいを徒然に
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