こんな嬉しい日はない 玄関に花がいっぱい 1年遅れの退職祝い
昨日も今日もお花とLEO君に囲まれている 最高に幸せ
マツンの感動の一場面 卒業生から1年後の退職祝い

嬉しくてすぐに電話をした。齋藤君とは直接話をできた。25歳で東京を離れ、あれから18年、青森県弘前市でお花屋さんを経営。中学校2年生の女の子と男3人のお父さんという。今年は雪が深いという。鴨宮君に電話。奥様が電話口に。初めて話をするからぎこちない。奥様は概要をすべて知っておりスムースに会話が。頑張り屋の人間で、プレス工業で働き、高校2年生・中学1年生の息子さんがいるという。一番驚いたのは1年前からの計画だったと知った時から。13日(日)にお花が届くよう手配をしていたという。3・11でそれどころではなくなった。そして、今日。事実を聞いてから感動一色。
マツンのむかしばなし 彼らが高校生の時の応援歌 「雑草」より
四年間の経験から 担任 松本 輝一
私は、東京の武蔵野市で生まれ育ちました。満四十二歳。いやだといってもシラガ頭に・・・。唯一の誇りは、戦後一期生ということです。立川が近く、五日市街道ぞいだったため、飛行機、トラック、アメリカ兵が恐く、戦争が終わって生まれたにもかかわらず、戦争って恐いということがまだ続いています。
雑木林と畑の中で、暗くなりクタクタになるまで遊んだのが少年時代。初めてテレビを見たのはプロレス。場所は吉祥寺の神社の境内。ものすごい人だった。親父に肩ぐるましてもらい、シャ-プ兄弟と力道山のたたかい。頭が一方通行だから、それ以来のプロレスファン。その後、金持ちの家にテレビが入った。隣の医者に「テレビを見せてください」といって、相撲をみたのをうっすら覚えています。小学校高学年でララミ-牧場というのがあったと思う。
家族五人の六畳の家。食べたものの思い出といえばサンマと納豆。いやだったのが水汲み。水道なんかなかったんだ。ただ重かった。当然ポットン便所。
中学時代はなぜかテニス部に入り、ひどい目にあった。ミッチ-ブ-ムでテニス人気はすごかった。試合と言うと荷物番。初めての試合はあがって覚えていない。今思うと、顧問の丸茂先生はキチガイ。当然当時はキチガイと確信していた。怒鳴るし、ぶつわ、背が大きいし・・・。結果は東京都三位。当然テニスの強い学校から引っ張られた。「私立にやる金なんてないよ」の親の声でジャン。
あとのことは別の機会に話しましょう。一声、一つの体験が人生の舵取になりますネ。当然大学にいける金などありません。働きながら大学を卒業しました。といえばきこえは良いですが、夜の酒場の人生勉強だけ。「一人酒場で」という美空ひばりさんの歌がその当時の自分の姿ピッタリでした。
職もいろいろ変えました。初恋の人を追いかけ、志賀高原の竜王スキ-場で番頭のアルバイトをしていました。
自分の青春は夜空の星のごとくきらめいていました。あるお客さんが「お前みたいのが教員やれよ、勤労学生の」ポツリと一言。バカだからその気になって、またアルバイトをしながら教員免許をとりに大学へ。運転手で、NHKの大道具の下請けにいた。社会の裏を初めて知った。出番を待つ森進一さん、都はるみさんらと会話したのを覚えています。この年のショックな出来事はなぜか三島由起夫の自決。大学紛争も当然・・・。
私が、なぜ長々とつまらない自分の生い立ちの一部を書いたかと言うと、何も学校で勉強する?(在籍するだけ)ことだけが全てではないということです。自分がその気になったらやれるという「勇気と決断」を養えばいいのです。
君達にも、何度も「一声」がかかると思います。ぜひ、自分自身とたたかい、弱くても細くても、前向きに一歩でも足を前に出す努力をしてください。
お手紙をよせてくれたお父さん、お母さんありがとうございました。「こんなこともあったのか」「ウ-ン・・・」の連続でした。勉強になりました。
遠くからでも、近くからでも子供を見る目は同じなんですね。いつかぜひゆっくり話をする機会をもちたいものです。
「雑草」は、四年間で八十号を計画しました。出来事を記録すると同時に、科技高の個人生のある断面を残せればと言う、気負った部分もありました。いつも、その場限りの書きなぐりで、このようにまとめるのは自分の恥をさらけ出すことです。そのことによって、初心に帰り、多様化・多質化した通信教育に再度チャレンジしたいと思っています。
私の高校生活 鴨宮 主広
私にとって、四年間、仕事をしながら高校生をやってきました。いま振り返ると、いろいろな楽しかったこと、辛かったことがありました。夜勤を終えての学校、学校を終えての夜勤、眠くてたまらなかったこと、また楽しかったことは、学校の授業を終えて、先生と酒を飲んで語り合ったり、普通の高校生では体験できなかったことをしてきました。
私にとって、学校生活十三年間の中で、この四年間が一番楽しく、一生の思い出になることまがいない。あと残りうまくいけば五ヶ月で卒業。それまでは科学技術学園高等学校の一生徒として恥じぬように、そして楽しく学んでいきたいと思う。私の出会った先生の松本先生は最高な先生でした。
「思いついたままに」斉藤 賢治
中学卒業後、コ-シン・ラシンに入社と同時に、工進精工所の集団生の一人として科技高に入学し、早いものでもう四年になる。この科技高の四年の間にはいろいろなことがあり、三年の途中までは一つの集団の中にいたために、他人に対しても、自分自身に対しても甘えや、その他諸々の理由で会社を辞め、個人生に移った。
仕事や生活にも、気持ちの上で余裕ができ、このままで卒業して何の役に立つのか、自分にプラスになったことは?、と考え、まだこれからの将来のため、とりあえず入学の時決意した、高校卒業の卒業証書を手にすること、また、集団生として入学した一年のときからのスク-リングの無遅刻、無欠席、無早退のまま卒業したいと思っている。
マツンのおもいで 個人生の修学旅行で伊豆方面(伊豆サイクルセンター)へ
昭和62年(1987年)10月24日(土)、25日(日)
雑草79号でこんな記事が
それぞれの顔 バスの中での自己紹介も顔も名前も一致しなかった人もたくさんいたと思う。「遠くから来ているんだ」というのが実感でした。まるでバカみたいに騒ぐもの、一人目をつぶる人などさまざま。

マツンの感動の一場面 卒業生から1年後の退職祝い

嬉しくてすぐに電話をした。齋藤君とは直接話をできた。25歳で東京を離れ、あれから18年、青森県弘前市でお花屋さんを経営。中学校2年生の女の子と男3人のお父さんという。今年は雪が深いという。鴨宮君に電話。奥様が電話口に。初めて話をするからぎこちない。奥様は概要をすべて知っておりスムースに会話が。頑張り屋の人間で、プレス工業で働き、高校2年生・中学1年生の息子さんがいるという。一番驚いたのは1年前からの計画だったと知った時から。13日(日)にお花が届くよう手配をしていたという。3・11でそれどころではなくなった。そして、今日。事実を聞いてから感動一色。
マツンのむかしばなし 彼らが高校生の時の応援歌 「雑草」より
四年間の経験から 担任 松本 輝一

雑木林と畑の中で、暗くなりクタクタになるまで遊んだのが少年時代。初めてテレビを見たのはプロレス。場所は吉祥寺の神社の境内。ものすごい人だった。親父に肩ぐるましてもらい、シャ-プ兄弟と力道山のたたかい。頭が一方通行だから、それ以来のプロレスファン。その後、金持ちの家にテレビが入った。隣の医者に「テレビを見せてください」といって、相撲をみたのをうっすら覚えています。小学校高学年でララミ-牧場というのがあったと思う。
家族五人の六畳の家。食べたものの思い出といえばサンマと納豆。いやだったのが水汲み。水道なんかなかったんだ。ただ重かった。当然ポットン便所。
中学時代はなぜかテニス部に入り、ひどい目にあった。ミッチ-ブ-ムでテニス人気はすごかった。試合と言うと荷物番。初めての試合はあがって覚えていない。今思うと、顧問の丸茂先生はキチガイ。当然当時はキチガイと確信していた。怒鳴るし、ぶつわ、背が大きいし・・・。結果は東京都三位。当然テニスの強い学校から引っ張られた。「私立にやる金なんてないよ」の親の声でジャン。
あとのことは別の機会に話しましょう。一声、一つの体験が人生の舵取になりますネ。当然大学にいける金などありません。働きながら大学を卒業しました。といえばきこえは良いですが、夜の酒場の人生勉強だけ。「一人酒場で」という美空ひばりさんの歌がその当時の自分の姿ピッタリでした。
職もいろいろ変えました。初恋の人を追いかけ、志賀高原の竜王スキ-場で番頭のアルバイトをしていました。
自分の青春は夜空の星のごとくきらめいていました。あるお客さんが「お前みたいのが教員やれよ、勤労学生の」ポツリと一言。バカだからその気になって、またアルバイトをしながら教員免許をとりに大学へ。運転手で、NHKの大道具の下請けにいた。社会の裏を初めて知った。出番を待つ森進一さん、都はるみさんらと会話したのを覚えています。この年のショックな出来事はなぜか三島由起夫の自決。大学紛争も当然・・・。
私が、なぜ長々とつまらない自分の生い立ちの一部を書いたかと言うと、何も学校で勉強する?(在籍するだけ)ことだけが全てではないということです。自分がその気になったらやれるという「勇気と決断」を養えばいいのです。
君達にも、何度も「一声」がかかると思います。ぜひ、自分自身とたたかい、弱くても細くても、前向きに一歩でも足を前に出す努力をしてください。
お手紙をよせてくれたお父さん、お母さんありがとうございました。「こんなこともあったのか」「ウ-ン・・・」の連続でした。勉強になりました。
遠くからでも、近くからでも子供を見る目は同じなんですね。いつかぜひゆっくり話をする機会をもちたいものです。
「雑草」は、四年間で八十号を計画しました。出来事を記録すると同時に、科技高の個人生のある断面を残せればと言う、気負った部分もありました。いつも、その場限りの書きなぐりで、このようにまとめるのは自分の恥をさらけ出すことです。そのことによって、初心に帰り、多様化・多質化した通信教育に再度チャレンジしたいと思っています。
私の高校生活 鴨宮 主広
私にとって、四年間、仕事をしながら高校生をやってきました。いま振り返ると、いろいろな楽しかったこと、辛かったことがありました。夜勤を終えての学校、学校を終えての夜勤、眠くてたまらなかったこと、また楽しかったことは、学校の授業を終えて、先生と酒を飲んで語り合ったり、普通の高校生では体験できなかったことをしてきました。
私にとって、学校生活十三年間の中で、この四年間が一番楽しく、一生の思い出になることまがいない。あと残りうまくいけば五ヶ月で卒業。それまでは科学技術学園高等学校の一生徒として恥じぬように、そして楽しく学んでいきたいと思う。私の出会った先生の松本先生は最高な先生でした。
「思いついたままに」斉藤 賢治
中学卒業後、コ-シン・ラシンに入社と同時に、工進精工所の集団生の一人として科技高に入学し、早いものでもう四年になる。この科技高の四年の間にはいろいろなことがあり、三年の途中までは一つの集団の中にいたために、他人に対しても、自分自身に対しても甘えや、その他諸々の理由で会社を辞め、個人生に移った。
仕事や生活にも、気持ちの上で余裕ができ、このままで卒業して何の役に立つのか、自分にプラスになったことは?、と考え、まだこれからの将来のため、とりあえず入学の時決意した、高校卒業の卒業証書を手にすること、また、集団生として入学した一年のときからのスク-リングの無遅刻、無欠席、無早退のまま卒業したいと思っている。
マツンのおもいで 個人生の修学旅行で伊豆方面(伊豆サイクルセンター)へ
昭和62年(1987年)10月24日(土)、25日(日)
雑草79号でこんな記事が
それぞれの顔 バスの中での自己紹介も顔も名前も一致しなかった人もたくさんいたと思う。「遠くから来ているんだ」というのが実感でした。まるでバカみたいに騒ぐもの、一人目をつぶる人などさまざま。

2012年03月21日 Posted by松本輝一 at 21:10 │Comments(3) │マツンのおもいを徒然に
この記事へのコメント
1年遅れですが、おめでとうございます!
へ~、昔はお寺でテレビを観たんですね。
吉祥寺のどのお寺さんだろう?
月窓寺さんあたりでしょうか?
僕らの世代でいうと、「初めてテレビを観た」にあたるのは、
初めてインターネットをやったとか、
スマートフォンに触れたかなぁ。
僕が定年を迎える頃には、若者たちは
「初めて月へ行ったのは…」なんて話をしてるのかもしれませんね。
へ~、昔はお寺でテレビを観たんですね。
吉祥寺のどのお寺さんだろう?
月窓寺さんあたりでしょうか?
僕らの世代でいうと、「初めてテレビを観た」にあたるのは、
初めてインターネットをやったとか、
スマートフォンに触れたかなぁ。
僕が定年を迎える頃には、若者たちは
「初めて月へ行ったのは…」なんて話をしてるのかもしれませんね。
Posted by たまりば編集長こぐま at 2012年03月21日 23:06
齋藤君、鴨宮君のサプライズ演出にやられましたね。
感激してしいました。
先生の生い立ちにを読ませていただいて
(貧乏の記憶しかない)と仰っていたのがよくわかりました。
常に自分で考え、決断する力を必要される
人生を歩んでこられたのですね。
戦い続けている強い先生も大好きですが
LEO君を抱いてデレデレの先生も大好きです。
感激してしいました。
先生の生い立ちにを読ませていただいて
(貧乏の記憶しかない)と仰っていたのがよくわかりました。
常に自分で考え、決断する力を必要される
人生を歩んでこられたのですね。
戦い続けている強い先生も大好きですが
LEO君を抱いてデレデレの先生も大好きです。
Posted by レオ君のファン at 2012年03月22日 01:11
コメント、ありがとうございます。通信制高校で「雑草」という学級通信を発行し、「担任のことば」ということで書いた文章でした。昭和59年4月15日に第1号を発行しています。4年間で88号発行しました。100部自分で印刷製本しましたが手元に残っているのは1冊のみ。鴨宮君は現場の班長として今日もプレス工業で夜勤をしています。私の原点が働きながら学ぶにあります。齋藤君は最後の金の卵です。就職列車で大きな夢を抱いて工進精工所にきました。事情があって退社し田舎に帰って花屋さんを経営しています。3・11でへこんだ日本ですが、底辺でこんなに頑張っている人がいるのです。
連日、お花をいただいてLEO君と夢のような写真を撮っています。ありがとうございます。
連日、お花をいただいてLEO君と夢のような写真を撮っています。ありがとうございます。
Posted by 松本輝一 at 2012年03月22日 02:53