28年前のこと
ダイナミックライフ
発行日 昭和60年(1985年)3月1日

生徒の文集を作っていた。その一部が見つかった。
企業内訓練校(いすゞ藤沢)の4年生の文集だ。(通信制高校の修業年限は4年以上だった)
題名は、「ダイナミックライフ」
私のはじめの言葉とあとがきを紹介しよう。
4年という長い年月も、過ぎてしまえば本当に短いものだ。君たちとともに、私もいすず藤沢工場の担当となった。意気込みだけはだれにも負けないものは持っているつもりの私。製図の授業はしんどかった。教える私の方が苦労するのだ。なぜだろう。2時間遊ばせず、強制的に机に座らせておく(これが製図の授業だろうか)教材づくりに追われた。火曜日がくるのがいやだった。
白棒高原スキー場にも一緒に行った。夜おくまでの研修には驚かされた。渡辺課長の熱心さにはまけた。スキーで疲れずに、KJ法の研修で疲れてしまった。その時、強歩のことが思いでに多く語られ、来年は生徒と共に歩いてみようと決意した。3年の時のフォロー教育も新しい試みだった。サロン的な雰囲気だったが、効果はあったようだ。(いすゞ藤沢の訓練校は修業期間が2年だった)

最後のスクーリング。実に残念だった。4年間付き合ってきてこれしか残らないのかという寂しい気持ちだった。
そこで文集づくりを思いついた。この多感な時期、多くの人のかげで支えられ、生きてきたと思う、それを原稿用紙2枚でまとめよということにした。期待はずれであった。でも、中味は充実している。この機会だから、手づくりの文集の質をアップするねらいで、ワードプロセッサを購入した。『ときの流れ』にのりそこねてはいけないという『ハナの中年教師』のあがきの結果でもある。
今ごろになって健康の大切さを知った。テニスの快汗に酔いしれている私である。君たちも、今以上に健康に留意してください。結婚などの際は連絡だけでもください。
あとがき
全員の原稿が集まった。
なにしろ、慣れないワープロ相手だ。
途中でハプニング。リボンがなくなってしまい、やむなく中断。
変換ミスなど多くあり。初心者の見本としてもらえればいいのだ。
みんなの声が、実生活に生かされることをのぞむ。
生徒の文章を紹介しよう
宮腰昌男
矢沢永吉が、「自分にとって青春というのはなかった。しかしなかったと思ってがむしゃらに生きていた時が青春だったのかもしれない」。と言ったのを覚えているが、まさにその通りだと思う。自分もそうだった。15から17歳という最も多感な時期を厳しい訓練校で過ごし、卒業後も現場でまた違った意味での厳しさを味わった。正直言っていい思いでは少ない。しかしその苦労がいまに跳ね返って、「なにくそ」という気を起こさせている気もする。
多くの入の生きかたを知った。自分自身の性格も認識した。いろいろな人と知り合った。又、多くの人と別れた。世の中の常識がわかった。自分も変わった。本当にえたものは多いと思う。自分を客観視できることも成長したと思う。僕は金属塗装二級の免許も取得したし、科学技術学園高等学校も卒業まじかだ。しかしそんな肩書きよりも、どのような日々をすごしたかが、大切なことと思う。結果がどうであれ、目標にたいして純粋な気持ちで努力することが人間らしい生きかたなんだと僕は思う。最近になって勉強をしている。ばかな話しと思われるが今頃になって基礎電気知識、機械工作などの本を読み返している。自然と必要になってくるからである。

でもこれが本来の勉強の姿勢と思っている。「4年間で得たこと」を書けという。ここでいまさら苦労話や自慢話を長々とする気はない。言いたく無いこと、そっと胸にしまつておきたいことなど、幸せに感じたことも含め胸がつまる気持ちになるからだ。確か2年前にも「2年間で得たこと」みたいな題で作文を書かされたことがあった。そして2年たつた今、さらに成長していることがわかる。この4年間をひとくちで表現するとしたら「我ながら凄い日々を送ったものだ」と思う。人間はだれだって思うようにはいかない。他人や環境にぶつかりふらふら流され…流れるままに生きてゆくしかないんだが、しかしそれは常に自分の意志でなれるんだ、と思っていたい。
発行日 昭和60年(1985年)3月1日

生徒の文集を作っていた。その一部が見つかった。
企業内訓練校(いすゞ藤沢)の4年生の文集だ。(通信制高校の修業年限は4年以上だった)
題名は、「ダイナミックライフ」
私のはじめの言葉とあとがきを紹介しよう。
4年という長い年月も、過ぎてしまえば本当に短いものだ。君たちとともに、私もいすず藤沢工場の担当となった。意気込みだけはだれにも負けないものは持っているつもりの私。製図の授業はしんどかった。教える私の方が苦労するのだ。なぜだろう。2時間遊ばせず、強制的に机に座らせておく(これが製図の授業だろうか)教材づくりに追われた。火曜日がくるのがいやだった。
白棒高原スキー場にも一緒に行った。夜おくまでの研修には驚かされた。渡辺課長の熱心さにはまけた。スキーで疲れずに、KJ法の研修で疲れてしまった。その時、強歩のことが思いでに多く語られ、来年は生徒と共に歩いてみようと決意した。3年の時のフォロー教育も新しい試みだった。サロン的な雰囲気だったが、効果はあったようだ。(いすゞ藤沢の訓練校は修業期間が2年だった)

最後のスクーリング。実に残念だった。4年間付き合ってきてこれしか残らないのかという寂しい気持ちだった。
そこで文集づくりを思いついた。この多感な時期、多くの人のかげで支えられ、生きてきたと思う、それを原稿用紙2枚でまとめよということにした。期待はずれであった。でも、中味は充実している。この機会だから、手づくりの文集の質をアップするねらいで、ワードプロセッサを購入した。『ときの流れ』にのりそこねてはいけないという『ハナの中年教師』のあがきの結果でもある。
今ごろになって健康の大切さを知った。テニスの快汗に酔いしれている私である。君たちも、今以上に健康に留意してください。結婚などの際は連絡だけでもください。
あとがき
全員の原稿が集まった。
なにしろ、慣れないワープロ相手だ。
途中でハプニング。リボンがなくなってしまい、やむなく中断。
変換ミスなど多くあり。初心者の見本としてもらえればいいのだ。
みんなの声が、実生活に生かされることをのぞむ。
生徒の文章を紹介しよう
宮腰昌男
矢沢永吉が、「自分にとって青春というのはなかった。しかしなかったと思ってがむしゃらに生きていた時が青春だったのかもしれない」。と言ったのを覚えているが、まさにその通りだと思う。自分もそうだった。15から17歳という最も多感な時期を厳しい訓練校で過ごし、卒業後も現場でまた違った意味での厳しさを味わった。正直言っていい思いでは少ない。しかしその苦労がいまに跳ね返って、「なにくそ」という気を起こさせている気もする。
多くの入の生きかたを知った。自分自身の性格も認識した。いろいろな人と知り合った。又、多くの人と別れた。世の中の常識がわかった。自分も変わった。本当にえたものは多いと思う。自分を客観視できることも成長したと思う。僕は金属塗装二級の免許も取得したし、科学技術学園高等学校も卒業まじかだ。しかしそんな肩書きよりも、どのような日々をすごしたかが、大切なことと思う。結果がどうであれ、目標にたいして純粋な気持ちで努力することが人間らしい生きかたなんだと僕は思う。最近になって勉強をしている。ばかな話しと思われるが今頃になって基礎電気知識、機械工作などの本を読み返している。自然と必要になってくるからである。

でもこれが本来の勉強の姿勢と思っている。「4年間で得たこと」を書けという。ここでいまさら苦労話や自慢話を長々とする気はない。言いたく無いこと、そっと胸にしまつておきたいことなど、幸せに感じたことも含め胸がつまる気持ちになるからだ。確か2年前にも「2年間で得たこと」みたいな題で作文を書かされたことがあった。そして2年たつた今、さらに成長していることがわかる。この4年間をひとくちで表現するとしたら「我ながら凄い日々を送ったものだ」と思う。人間はだれだって思うようにはいかない。他人や環境にぶつかりふらふら流され…流れるままに生きてゆくしかないんだが、しかしそれは常に自分の意志でなれるんだ、と思っていたい。