好奇心と行動
おせっかい?お節介?でも知りたいんだ!

毎週金曜日、三鷹市教育会館に行く。その時目についたのが農協の看板。
「読めない」「何を意味して貼ってあるのか」
意を決して農協の窓口で訪ねてみた。
女子職員の方が読み方を教えてくれた。
農協のカルチャーセンターでの生徒作品だという。
今年度の農業祭でも作品展示があるという。
情報発信もいいけど、丁寧さがあるといいと思うけど。
お節介な話か?
穏
水ふんで草で足ふく夏のかな
何度も読んでいるうち何となく感覚が・・・。俳句は苦手だな!
久しぶりに湘南台の空気を吸った。気持ちが長後の方に。

湘南台の地域活性化協議会CS湘南4Fで「ふじさわブログ塾」が開催された。お手伝いで参加した。3時間という限られた時間の中で中味いっぱいを押し込んだ講義と実習。gooのブログを立ち上げ、フェイスブックグループに参加しさらに書き込みをしようというもの。ベテランの方ばかりで30分はオーバーしたものの無事終了。ブログの良さは継続だろう。毎日更新できればそれに越したことはないが、書きたい何かがあった時記事を書けばよいのではないか。記事にしようという好奇心があれば情報は転がっているはずです。見逃しているだけではないでしょうか。湘南台という名前からつぎのような記事が浮かんだ。長いけど、よろしかったらお付き合いを。

この写真は、平成20年(2008年)5月2日の湘南台の居酒屋。いすゞ藤沢の同窓会。
私は昭和46年4月に東京都世田谷区成城にある科学技術学園工業高等学校機械科に勤務した。通信制の工業高校、東京12チャンネルでの工業高校講座がありユニークな存在だったが、当時は産学協同反対という流れの中で厳しい存在でもあった。
この学校の仕組みはいくら説明しても難しい。簡単なものを一つ紹介。
いすゞ自動車藤沢工場の中に、いすゞ自動車藤沢工業専修学校(中卒2年、高卒1年訓練課程)があった。高卒の資格を取ろうということで中卒2年課程の生徒が同時に科学技術学園工業高等学校にも入学した。学習の二重負担を軽減しようと、いすゞ自動車工業専修学校で学んだ専門科目の一部は高校の単位として認めようという技能連携制度があった。職場に出てからの2年間は指定された日曜日にスクーリング・試験に世田谷・成城の本校に通う仕組みになっていた。働きながら学ぶという厳しい環境だ。
私は昭和56年(1981年)4月からいすゞ藤沢を担当し、週1回授業を担当し、さらに巡回指導を行った。当時は会社の野球部も強く都市対抗にも力が入っていた。小田急線の急行が長後にしか止まらなくバスも少ないので毎回車で迎えに来てもらった。学校が会社の一番隅っこで、入口からかなりの距離があったのを覚えている。景気が悪くなり中卒訓練もなくなり野球部もなくなった。32年前の話で、当時の生徒は50歳少し前。平成17年(2005年)、湘南台の居酒屋で同窓会をやった。20数年ぶりに会うと誰だかわからない。
いすゞに残っている卒業生は地域活動もしているはず。このブログを読んで、「もしかして?」と」繋がりが見つかるかもしれない。知っている方がいたら松本まで連絡をください。
夏の甲子園で優勝した前橋育英高校の荒井直樹監督はいすゞ自動車野球部に13年在籍していたという。長谷川さんという野球部OBからいすゞアスカを買う羽目になった。
いすゞ藤沢といえば名物行事があった。85㌔の強歩。寝ないで歩くという。「お前らバカジャン!」と言ったら翌年参加する羽目に。湘南台から山中湖の道志村まで。昭和58年5月19日(水)~20日(木)。37歳の時。部外者で歩き通したのは私が初めてだという。当時の渡辺課長にはあらためて感謝したい。
何と、今、繋がりを発見。浜元てるき (はまもと輝喜) 藤沢市議会議員彼こそ卒業生であり指導員(先生)でよく知っている。鋳造の技能五輪で銅メダルを取っている。やんちゃであり頼もしく責任感のある人だった。連絡が取れない一人だった。
私が昭和46年に科学技術学園工業高等学校に入り、初めて教科を教えに行ったのがいすゞ自動車川崎工業専修学校だった。3年生に機械応用力学を教え、2年生に浜元さんがいた。その後浜元さんが学校の指導員になり科技高担当の私と知り合った。

協力校でお世話になった横浜浜市立鶴見工業高等学校。今この校舎はない。

毎週金曜日、三鷹市教育会館に行く。その時目についたのが農協の看板。
「読めない」「何を意味して貼ってあるのか」
意を決して農協の窓口で訪ねてみた。
女子職員の方が読み方を教えてくれた。
農協のカルチャーセンターでの生徒作品だという。
今年度の農業祭でも作品展示があるという。
情報発信もいいけど、丁寧さがあるといいと思うけど。
お節介な話か?
穏
水ふんで草で足ふく夏のかな
何度も読んでいるうち何となく感覚が・・・。俳句は苦手だな!
久しぶりに湘南台の空気を吸った。気持ちが長後の方に。

湘南台の地域活性化協議会CS湘南4Fで「ふじさわブログ塾」が開催された。お手伝いで参加した。3時間という限られた時間の中で中味いっぱいを押し込んだ講義と実習。gooのブログを立ち上げ、フェイスブックグループに参加しさらに書き込みをしようというもの。ベテランの方ばかりで30分はオーバーしたものの無事終了。ブログの良さは継続だろう。毎日更新できればそれに越したことはないが、書きたい何かがあった時記事を書けばよいのではないか。記事にしようという好奇心があれば情報は転がっているはずです。見逃しているだけではないでしょうか。湘南台という名前からつぎのような記事が浮かんだ。長いけど、よろしかったらお付き合いを。
この写真は、平成20年(2008年)5月2日の湘南台の居酒屋。いすゞ藤沢の同窓会。
私は昭和46年4月に東京都世田谷区成城にある科学技術学園工業高等学校機械科に勤務した。通信制の工業高校、東京12チャンネルでの工業高校講座がありユニークな存在だったが、当時は産学協同反対という流れの中で厳しい存在でもあった。
この学校の仕組みはいくら説明しても難しい。簡単なものを一つ紹介。
いすゞ自動車藤沢工場の中に、いすゞ自動車藤沢工業専修学校(中卒2年、高卒1年訓練課程)があった。高卒の資格を取ろうということで中卒2年課程の生徒が同時に科学技術学園工業高等学校にも入学した。学習の二重負担を軽減しようと、いすゞ自動車工業専修学校で学んだ専門科目の一部は高校の単位として認めようという技能連携制度があった。職場に出てからの2年間は指定された日曜日にスクーリング・試験に世田谷・成城の本校に通う仕組みになっていた。働きながら学ぶという厳しい環境だ。
私は昭和56年(1981年)4月からいすゞ藤沢を担当し、週1回授業を担当し、さらに巡回指導を行った。当時は会社の野球部も強く都市対抗にも力が入っていた。小田急線の急行が長後にしか止まらなくバスも少ないので毎回車で迎えに来てもらった。学校が会社の一番隅っこで、入口からかなりの距離があったのを覚えている。景気が悪くなり中卒訓練もなくなり野球部もなくなった。32年前の話で、当時の生徒は50歳少し前。平成17年(2005年)、湘南台の居酒屋で同窓会をやった。20数年ぶりに会うと誰だかわからない。
いすゞに残っている卒業生は地域活動もしているはず。このブログを読んで、「もしかして?」と」繋がりが見つかるかもしれない。知っている方がいたら松本まで連絡をください。
夏の甲子園で優勝した前橋育英高校の荒井直樹監督はいすゞ自動車野球部に13年在籍していたという。長谷川さんという野球部OBからいすゞアスカを買う羽目になった。
いすゞ藤沢といえば名物行事があった。85㌔の強歩。寝ないで歩くという。「お前らバカジャン!」と言ったら翌年参加する羽目に。湘南台から山中湖の道志村まで。昭和58年5月19日(水)~20日(木)。37歳の時。部外者で歩き通したのは私が初めてだという。当時の渡辺課長にはあらためて感謝したい。
何と、今、繋がりを発見。浜元てるき (はまもと輝喜) 藤沢市議会議員彼こそ卒業生であり指導員(先生)でよく知っている。鋳造の技能五輪で銅メダルを取っている。やんちゃであり頼もしく責任感のある人だった。連絡が取れない一人だった。
私が昭和46年に科学技術学園工業高等学校に入り、初めて教科を教えに行ったのがいすゞ自動車川崎工業専修学校だった。3年生に機械応用力学を教え、2年生に浜元さんがいた。その後浜元さんが学校の指導員になり科技高担当の私と知り合った。

協力校でお世話になった横浜浜市立鶴見工業高等学校。今この校舎はない。